【和歌山県】大畑才蔵(1642-1720)

 

 大畑家に伝わる才蔵の道具(橋本市観光協会HPより)

 

 大畑才蔵は、寛永19年に現橋本市学文路(かむろ)に生まれた。才蔵は、幼い頃から非凡であったという。大庄屋の補佐役になったのが17歳の時、23歳のときには庄屋になるとともに郡方御用も勤めた。
 そのころ、今の和歌山県の大部分と三重県のほぼ南半分を支配していた紀州藩は、深刻な財政難に悩んでいた。藩主徳川光貞は、元禄4年(1691)のころから財政立て直しのために農政の改革に取りかかった。そのとき抜擢されたのが、測量技術や土木工法のことで名が知れていた才蔵である。

 54歳になっていた大畑才蔵は、地方(じかた)役人として藩内を調査し、治水計画を立てた。「水盛器(水準儀)」での高低測量などの調査結果から、各丁場ごとの必要資材や土量、必要人員を得て事業計画と経費見積もりを行い、複数工区での同時着工による工期短縮を実現し経費圧縮を実現した。
 同様の手法で三重県の雲出(くもず)川からの用水路建設、その後の紀ノ川北岸の灌がい工事にも成功する。
 紀州藩では、1705年徳川吉宗が藩主になってからのちも新田開発に力が入れられ、引き続き才蔵が重用された。

 才蔵が、最後に取り掛かったのが小田井の用水工事であった。紀ノ川の北側に水を引く用水工事は、河岸段丘が続く、地形的に難しいものであったが、小河川の横断にはサイフォンあるいは筧(かけひ)の技術を取り入れ、宝永5年(1708)に第1期工事を完成させた。才蔵が地方役人を退いた後も工事は引き続き実施され1,200ヘクタールの美田が開かれた。
 彼が残した「地方聞書」あるいは「才蔵記」と呼ばれる書には、年貢取り立て時の役人の心がまえ、農民に必要な知識、水盛器による高低測量技術などが記録されているという。
 大畑才蔵は治水の神様と慕われ、一生を治水と農民のために尽くした。  


   

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