【富山県】 椎名道三(1790-1858)

 

 椎名道三肖像(「十二貫の用水誌」より)

 

 椎名道三は、寛政2年に現滑川市の十村役(大庄屋)宝田宗三郎の三男として生まれ、まもなく現魚津市にあった椎名家に養子に出された。
 椎名家は、室町時代から200年の間松倉城主であったが上杉謙信との戦いに敗れてからのち、この地で百姓を営む由緒ある家であったという。椎名道三は、少年時代を貧しい農民の住むこの山村で過ごした。幼少時代のエピソードとして、14歳の時には谷川の水を引いて20aほどの開田を、17歳の時にも4.5haの開田をして村人を驚かせたとあるから、貧村にありながらも学問を受け、土木技術を身につける環境には恵まれていたものと思われる。道三はその後も各地で、新田開発を行い加賀藩では名が知れるようになっていた。

 彼が生まれ育った江戸時代の初めは、享保、寛政、天保と飢饉が続いていた。新田開発のこともこの大凶作のことと無関係に行なわれたわけではない。むしろ、農民の救済のために実施されてきたのである。
 そうした中で、当時加賀藩で進めていた農政改革のことをする改作奉行と新川郡の農民らは、困窮する民を飢餓から救うために十二貫野と呼ばれる台地の開発を加賀藩に願い出た。十二貫野は黒部川と布施川に挟まれた台地にあり、この地へ引水するには、高い土木技術と多額の資金を必要とするものであった。飢饉の中での農民の手による開発には、資金面での問題があったと思われるが、当時加賀藩の財政は逼迫しており藩費の支出は考えられなかった。一時的にしろ、必要な資金は願い書を提出した地元の負担となって工事は進められたと思われる。

 技術的な問題は、新田開発の実績を持つ椎名道三が解決した。道三は天保8年47歳の時、加賀藩から十二貫野の用水路工事と新田開発の計画立案を命じられ、これを担当することになった。彼は周到な事前調査を行い、引水設計にかかる詳細な絵図面を作成し事業計画の説明に使用された。そこに至るには、十分な調査と測量技術があったと思われる。この事前調査を踏まえて天保10(1839)年5月に工事に着手し、同12年9月に用水路工事は完成した。約24kmに及ぶ用水路工事の谷越えには、石管を用いた導水管で谷を越えるサイフォンの原理を用いている。
 道三が使用した測量器具には、コンパス、方円分度器、大方儀、磁石盤などがあり、大方儀には忠敬の測量機を製作した大野規行の銘があるものが残されている(森丘金太郎氏所蔵)。水準測量は、昼間は菅笠、夜間には提灯を点して行なったと言い伝えられているが詳細は不明である。一方で、三角法や三角関数が用いられたのではないかともいわれている。

 では、この測量術をどのようにして学んだだろうか。当時の越中には、伊能忠敬と交流があり、忠敬を超えるほどの地図を成した石黒信由(1760-1836)、幕府天文方山路主住の門人で石黒の和算の師でもあった富山藩士中田高寛(1739-1802)、麻田剛立の門人で同じ石黒の天文の師であった西村太沖(1767-1835)らがいた。道三は、幼くして養子に出されたとはいえ、年貢の取り立て、検地と地図作成、用水管理などをする十村役の出であったことから、彼らの学問や技術を習得する機会に恵まれていたと思われる。石製導水管とサイフォンの原理を利用する技術のことは、これ以前加賀藩の板屋兵四郎が金沢城と城下の防火・生活用水の確保を目的に施工した辰巳用水(寛永 9年 1632)で用いられたものである。土木や測量術が師から弟子へ秘術として伝えられた時代ではあるが、前述のような理由から道三が、不明ながら師を通じてこの技術に触れることは比較的容易なことであったかもしれない。

 道三が天保8年に十二貫野の新田開発計画立案を命じられたとき、新田裁許・測量方新田勢子役という長い肩書きをもらっていた。正規の役職に就いたからというわけではないのだが、賀藩農政のための新田開発は、その後越中から能登・加賀までにも及び、生涯に開拓した面積は1,200町歩(1,200ヘクタール)にもなる。

 椎名道三は越中の優れた土木技術者であり新田開発功労者であるが、その奥底には和算や測量の知識があったことは確かである。黒部の人々は道三の導いた水の恩恵を、偉業のこととともに現在に引き継いでいるという。

 【参考文献】
 「十二貫の用水誌」十二貫の用水土地改良区編ほか


  

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