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蔡温は、琉球最高の行政ポスト「三司官」にあって、琉球王府の経営に多大な業績を残した人、そして沖縄で初めて自叙伝を書いた人でもある。測量・地図に近い分野では、本島北部(現名護市)を流れる羽地大川の改修をし、元文検地を手がけ、山林経営にも力を発揮した人として知られる。
久米村は、明の時代に琉球の要請を受けて、中国の福建から来た技術者集団が帰化した人々が暮らす地域であった。
中国へは、琉球国からの2年に1度の貢物を献上する際の進貢副使として1716年にも派遣され、そのときは1年9カ月滞在した。その後は、広い範囲で行政手腕を発揮し、順調に階段を上りつめ、1728年には琉球王府最高の行政ポスト三司官となって王府経営に当たった。
ここで要求された科学技術はどのようにして習得したのであろうか。琉球王府は、1667年から「地理・風水」を学ぶ目的で若者を留学させている。蔡温もまた、その一人であった。当時の風水は、単に吉凶判断するばかりでなく、地理に応じて無理のない都市建設や土木施工を行うものであった。 さて、元文検地のことであるが、この検地は、この当時の海岸低地部を中心に実施された大規模な耕地開発とそれに伴う集落移動があり、琉球王府がこれを把握するため、あるは王府自身がこうした開発を進めるために行われたといわれる。また、検地本来の目的である徴税のために使用された形跡がないこと、蔡温が進めていた山林経営のことから推測すると、今後守るべき森林資源把握のためにしたのではないかともいわれている。
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