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松田緑山と松田龍山は、京都の銅彫師 初代玄々堂松本保居(1786-1867)の長男と八男である。
銅版と地図との関わりは、司馬江漢(1747-1818)の銅版世界地図に遡る。江漢こそ日本で初めて腐食銅版画を試み、銅版世界図を作成した人であり、その後地図や名所絵、外国風景などの細かな画像がこの技術によって表現される。
兄弟の家は代々数珠の製造をしていたが、父は玄々堂と号し、多くの銅版画を手がけていた。その中には、京都観光絵図や「以顕微鏡雪花図」などのほか、「地球万国全図」、「日本輿地全図」、「大日本豊秋津州略全図」、「天文測量諸器調進所」など地図関係のものも多く含まれる。このように、玄々堂は京都の銅版画をする印刷会社といったものであった。
二代目玄々堂を継ぐことになる緑山は、12歳のときの「愛宕山清滝渡猿橋」が銅版画制作の初めと思われ、その後活発な制作活動を行う。
明治元年、玄々堂はそれまでの藩札製造の実績を受けて、明治新政府から金札(太政官札)製造を依頼されこれにあたる。さらに命を受けて、緑山は東京に向かう(明治2年)。こののちは、紙幣、切手、証券、手形など明治新政府の有価証券類の製作を一手に受け、銅版彫刻技術者として活躍する。特に、明治3年(1870)に、彼が最初に製作した「龍文切手」は切手マニアには垂涎の的となるものである。
石版技術のことでは、明治6年のウイーン万国博覧会に随員として参加した岩橋教章が、その後ウイーン地図学校などで銅版画や石版画の技法を取得して翌年帰国した。岩橋は帰国後、紙幣寮を経て、内務省地理局勤務となり、多くの銅版や石版技術者を育成した。また、陸軍兵学寮の川上冬崖は、明治6年当時印刷局にあった米人ボインドンに師事して石版印刷を学び、当時兵学寮にあった石版印刷機によって試み、同7年12月には図画入門書といったものである「寫景法範」を得たが、石版で地図を印刷するには至らなかった。地図が、石版印刷されるのは、明治10年以降のことである。
水路部では、石版印刷のことで明治7年にアメリカ留学した打田新太郎が、同年9月帰国後に試みたのが最初である。
明治3年のころから石版を試みていた緑山もまた、紙幣寮を辞することになる、明治7年には石版器械一式を手に入れるとともに、東京京橋区呉服橋の自宅を銅石版印刷所「玄々堂」として開業する。ここで特徴的なのは、石版とのかかわりで登場した岩橋教章と川上冬崖は、いずれも当時日本を代表する画家であった。そして、前々回に紹介した測量機器を製造した藤島常興も。
それはともかく、銅版画をし、事業としての石版印刷の発展に寄与した緑山は、「銅鐫 地球万国方図」「大日本豊秋津州一望之図」といった地図・鳥瞰図のほか名所図、神社境内鳥瞰図などを多く残した。
明治10年「銅板絵入 懐中東京案内(福田栄造編)」には、「有名銅版所」として玄々堂の名があり、明治18年の「石版技手人名鏡」番付で緑山は、「年寄」に名が挙げられている。緑山は、時代を代表する石版印刷技術者であり、銅版画の第一人者であった。
弟の龍山は、10歳の時「音羽山清水寺細図」を製作し、これ以後父保居や兄緑山らの作品の模作に精を出すなど、彼らについて腕を磨いていた。明治2年には、兄とともに東京に出た。
明治5年のころ、水路局の柳楢悦(初代水路部長)は、業務拡張のため17項目にわたる施政方針を海軍省に上申していた。その一項目に「銅版器を英国に注文し、銅版技術伝習のため1名を英国に出張させること」ということがあった。この様な背景から、海図作成のための銅版彫刻技術と、その技術者の確保が望まれ、同5年3月に龍山(松田儀平)が水路局に採用された。そこで、海図彫刻を担当することになる。
ちなみに、その英国留学のことは、同じころ出仕した柳田竜雪が派遣されたが、彼は帰国後に水路部に出仕しなかった。
明治5年9月、松田保信(龍山)の名が刻まれた日本で最初の海図「陸中國釜石港之図」が完成する。英国図式による同図は、海岸線やケバ、そして注記文字にも銅板彫刻の華麗さが見えるものである。これが龍山の海図彫刻の最初である。龍山はその後、多くの海図彫刻と要員教育に従事した。これ以後担当した海図には「松田龍山」の文字が刻まれていく。
海軍に永くいた龍山は、父や兄にたがわぬ芸術的な素質を持ち合わせていたとしても、それを発揮する機会に恵まれなかったのかも知れない。海図彫刻の合間に制作したのだろうか、後年の作品であろうか「自築地沖保亭留館遠望図」、「自芝愛宕山茶亭品川海眺望之図」といった微細に表現された銅版画がいくつか残されている。
日本で最初の海図彫刻師松田龍山は、明治16年(1883)に水路局を退職し、後年は自宅で器械器具類の彫刻などに従事したという。
【参考文献】
「日本水路史」海上保安庁水路部
「玄々堂とその一派展」神奈川県立近代美術館
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