【熊本県】 神足勝記(1854-1937)

 

 神足勝記(「孤高の道しるべ」より)

 

 神足勝記は安政元年(1854)熊本で下級藩士の家に生まれ、9歳で藩校時習館に学んだ。その翌年には、父が病死した。明治3年には、各藩からの推薦を受けた貢進生として今の東京大学、大学南校に進むのだが、藩校そして大学南校への進学は身分の低い藩士のものとしては特別のことであった。神足の学力が優れていたことを示すものである。

 当時の大学南校は、語学を習得したのち専門科学などを習得する手はずになっていた。彼は、のちに初代地質調査所長として上司となる和田維四郎らとともにドイツ語を専攻する。ドイツ語修学後は鉱山学を学んでいたのだが、廃藩置県により学資給付が打ち切られていたこともあって、母親思いの神足は熊本に残してきた老齢の身にこれ以上の負担をかけることは出来ないと考えたのだろうか明治8年に同校を退校した。同年内務省地理寮に出仕し気象観測に当たるのだが、本当に職務としたかったことは測量であったという。同11年には、組織改革があって地理寮が廃止され職を失う。やむなく東京外国語学校のドイツ語教員となり、母と姉を東京に呼び寄せた。

 翌12年には、知己であった品川弥二郎の推薦を受けて工部省鉱山局に転じ、秋田県阿仁鉱山勤務となるのだが、母の病気によりこれも退職する。同年、再び品川のつてで、大学南校で一緒であった和田維四郎ともども内務省地理局地質課(翌年勧農局となる)に出仕する。
 地質課では、大川通久、阿曽沼二郎、中村?静らとともに、独人ナウマン(Edmund H Naumann 1854-1927)の下にいた同じ独人のシュット(Otto Schutt ?-?)から地形測量の指導を受けた。その後、阿曽沼二郎や関野修蔵といった、工部省測量司で英人マクヴィン(C.A.Mcvean or Maccwen ?-?)の指導を受けたのち、地理寮を経て地質課に出仕してきた者を加えて、シュットの指揮下で本格的な地図作成が開始される(明治13年)。

 この地図作成は、勧農局地質課がその後の地質・土性調査のベースとするために陸地測量部の地形図作成に先んじて実施したもので、本州各地から九州までの地形図が作成された。
 同地形図作成は、現在のような体系的に整備された三角点に基づく正則な方法によるものではなく、主要地点の高さはバロメータ(水銀晴雨計)により、位置は携帯経緯儀などを用いた天文測量により求め、地形は平板測量を使用する方法によった。現地では縮尺5万分1の「野稿図」と呼ばれる原図を作成し、これから編纂して土性図用の10万分1地形図、そして地質図用の20万分1や40万分1の予察地形図が本州各地から九州まで刊行された。これは、伊能図以降、陸地測量部に先駆ける、日本で最初の地形図作成といえる。
 農商務省農務局地質課は、明治15年に同省地質調査所となり初代所長には、和田維四郎が就任した。

 翌年から地形図作成と並行して「日本全国磁力調査」を開始した。これを主に担当したのも神足と関野である。計器はカールバンベルヒ製の携帯用磁力計が使われ、伏角、偏角、磁力の3成分が測定された。観測点は北海道から九州までのおおよそ200カ所、結果は等磁力線図としてまとめられたといわれているが、同図は残されていないという。併せて行われた同時観測は、国際共同観測の一環として実施された。

 その後の神足は、同24年当時御料局長官となっていた品川弥二郎に招へいされて、初代御料局測量課長となる。宮内庁では同庁所有地、いわゆる御料地と民地の境界を明らかにするための測量と大縮尺地図の作成を開始する。しかし、時代は陸地測量部の三角測量が緒についたばかりで、その選点がやっと開始されたところであったから、木曾・赤石・八ヶ岳御料地など山岳地の測量は、陸地測量部に先駆けて実施された。そのときの選点、そして計算の一部までもが陸地測量部の三角測量成果として利用された(木曽御料地内に設置した587点の三角点の中から、陸地測量部は1等点に1点、2等三角点に24点、3等点に36点を使用した。「孤高のみちしるべ」上条武著)。同時に、御料地にかかる測量準則の整備や人材育成も彼の手になった。明治44年木曽御料地付近2万分1地形図を明治天皇に奏上した。
 神足勝記は、地質調査所における日本で最初の地形図作成と磁気観測、御料局での山岳地における三角測量の実施と境界確定測量を成した技術者である。

【参考文献】
「孤高の道しるべ」上条武著 銀河書房、「地質調査所90年史」地質調査所ほか    


 

もどる