江戸初期の朱子学者、土木家、土佐藩家老。
正保のころ(1632)、土佐藩の奉行職は32歳と若い野中兼山であった。彼は、土木工事に熱心で、各地で築港、河川、道路、灌漑などの工事を積極的に進め、その成果は今なお高い評価を得ている。
彼は、対馬の宗氏や薩摩の島津氏とも親交があり、天文、測量、土木に関する新しい知識があったという。
地図測量のことでは、正保元年幕府の命により各藩が絵図面を作成したのを機に、土佐藩と伊予宇和島藩との間に、伊予灘に浮かぶ「沖の島」をめぐる境界紛争が起きた(正保 3年 1646)。その後、両藩は直接交渉を続けていたが、解決にいたらず、宇和島藩は幕府に提訴した。
天文・測量にも明るかったと思われる兼山は、現地の測量をして、正確な実測図を作り、関連する検地帳などの資料の収集を行い幕府に説明を行うことにした。兼山が作成し提出した絵図は、長さ230p、幅230pの大きなもので、精度も良く、同時期に提出された宇和島藩のものと比べると、その差は歴然としていた。どのような測量を実施したのであろうか。
さらに兼山は、この絵図をもとに檜材による模型を作った。長さ180p、高さ20p、幅100pの大きなもので、全体は 6つに分解でき、一部に彩色も施した精巧なものである。そして彼は、これを江戸表に運び、訴訟の説明に使用したという。
万治 2年(1659)裁決は下された。それまで、土佐、伊予両藩に二分していた「沖の島」は、両藩の入会の権利は認めながらも、土佐藩に有利な境界となったという。しかし、同時に起きた他所での境界紛争(北部宇和島との境にある篠山)では伊予に有利な裁定になったという。
明治 7年には、永らく二分されていた島の北西部の伊予藩領であった母島地区と、南西部の土佐藩領の弘瀬地区を含めた島全体が高知県の管轄になった。しかし、今でも両地区の建築・生活様式などには違いがあるという。
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