【鹿児島県】 肝付兼行(1853ー1922)

 

 肝付兼行(1853ー1922)

 

 肝付は旧姓を江田そして大伴といい、鹿児島県に生まれ幼名を船太郎といった。
 明治 2年北海道開拓使に出仕し測量に従事し、明治 5年には水路局に転じた。水路局ではダビッドソン子午儀を用いタルコット法により19の対星を観測して天文緯度を決めた(明治 9年)。これが港区麻布台にあった海軍観象台の肝付点であり、この値を子午環中心に移し変えたのが、旧日本経緯度原点の緯度値である。
 経度観測のことでは、明治 9年開拓使の福士成豊(青森)と肝付(東京・観象台)が担当して両地点での連続測定を実施した。これは日本独自の経度電信測定の最初である。
 肝付が在籍していた水路局は明治 4年に発足、当初北海道沿岸の測量を英艦シルビア号と共同して実施していたが、徐々に独自の水路測量が実施できる体制となった。同5年 9月には、日本の水路局としての第 1号海図「釜石」が完成し、本格的な水路測量が開始される。肝付は、観象台事務から測量課副長を経て、明治16年には量地課長となる。水路局はその後、同19年に海軍水路部となり、柳楢悦が初代水路部長、肝付が測量課長となった。
 この間、明治14年に「水路測令」、「水路図誌編集心得」の制定にあたるとともに、柳局長の命を受けて「日本全国海岸測量12ケ年計画」の立案を担当した。豊後水道、尾道・広島沿岸、大村湾、下関海峡など日本各地の水路測量に従事し、第 2代と第4代の水路部長となり水路事業の発展に寄与した。
 退官後は、明治44年に貴族院議員、大正 2年には大阪市長も務めた。
 肝付の退職に際して、水路業務への功績を称えて、彼の手で測量・刊行された海図一揃いが水路部から贈られた。そののち、関東大震災により水路部所有の海図が類焼し、このことを聞いた遺族が、保有していた海図を水路部に寄贈したというエピソードが残されている。  


 

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