【福井県】

大野弥五郎 規貞(?-?)と大野弥三郎 規行(?-?)、大野弥三郎 規周(1820-1886)

   

 大野規周(造幣博物館HPより)  測量製図器具の引札(「量地図説」より)

 

 大野氏は加賀藩の出で、規貞、規行、規周と江戸に三代続く天文測器師であった。
 麻田剛立(1734-1799)の推挙を受けて高橋至時(1764-1804)とともに江戸の暦局に出仕して改暦御用にあたった間重富(1756-1816)には、暦学上の功績のほか、精巧な観測機器の作製がある。特に、精密機器を作製できる技術者の開拓と育成、これに要する資金の提供である。間重富は、京都の戸田東三郎(?-?)には象限儀、垂揺球儀を、後には江戸の暦局御用時計師大野規貞、規行父子には小方儀、象限儀、厘尺、コンパスなどの作製にあたらせたという。
 関連して、「伊能忠敬測量日記 蝦夷于役志」(寛政12年 1800)以降には、忠敬の出立に際して見送る人々の中に再三、大野弥五郎(規貞)、弥三郎(規行)の名が見え、彼らは忠敬とも親交があったことが分かる。忠敬が当初に持参した測量機器として、象限儀、垂揺球儀、子午線儀、測食定分儀、星鏡、望遠鏡、方位盤、間棹、指南鍼、コンパツ、新製分度規矩の名が同測量日記に見られることからも、これらの機器の一部が彼らの手で製作されたと思われる。機器の製作にあたって、その細工などの詳細は、蘭書などのよって分かるとしても、作製には相当の技量を必要としたに違いない。
 江戸(両国)横山町三丁目にあった玉屋吉次郎店の測量機器販売”引札”(チラシ1852年)には、その製作者として測器師大野弥三郎規周の名がある。引札には、天文測量機器として、象限儀、垂揺球儀、子午線儀、星鏡子午線規、地平経緯儀などが、地方測量機器として、大方儀、小方儀、曲尺、八線儀、水縄などが記載されている。規貞や規行は、当初こそ間重富の依頼によって測器製造にあたったのであろうが、この横山町の玉屋吉次郎商店や浅草茅町の大隅源助の引札に見られるように、ほどなく測器製作が本職になって、一般者に販売を始めた。
 幕末から明治にかけて、測量機器にそれほど多くの需要があったということになる。それは、主に地方(じかた)呼ばれる農政のための量地測量を行う者や、明治期に入ってからは地租改正とそれに伴う地引絵図作成の者などに使用されたものと思われる。
 実際、富山藩で用水開削をした椎名道三(1790-1858)が使用したと思われる?(森丘金太郎氏所蔵)大方儀には大野規行の、松代藩で「松代府内測量図」を作成した東福寺泰作(1831-1901)が使用した小方儀には大野規周の銘があるなど、各地に残されている測量機器には同様の銘が入ったものが多く残されている。

 明治維新前の文久2年(1862)、規周は榎本武揚らとともに幕府遣欧留学生としてオランダに渡る。榎本のオランダ留学は、本場の海軍を学ぶためというほかに、幕府がオランダに注文した開陽丸の建造についての監督官を兼ねていた。この遣欧留学生に参加したものは、法学、機械・造船、医学、経済などを学ぶ者とともに、買い受けた軍艦のための操艦・航海や鍛冶・鋳物を学ぶ者も含まれていた。その人選は、身分よりも実力を優先したもので、多くの下士のほか水夫や職人も含まれていて、帰国後は技術者として日本の近代化に活躍することが期待されていた。
 測量機など精密機器の製作を学ぶ職人規周も、その中の一人であった。
 規周は、安政2年に福井藩に、慶應3年以降幕府海軍に器械技術を指導し、その後大阪造幣局技師となり、機械器具製作の指導に当たった。大阪の造幣博物館には、工作方大野規周製作の天秤や大時計が展示されている。そして四代目となる規周の子規好もまた1877年にスイスに留学し、帰国後は大阪で時計製造工場を開き、規周とともに懐中時計の製造を試みた。その後の日本の時計製造には大野規周の高弟によって進展したといわれている。
 このように大野の代々の人たちは、時代の流れに乗って天文測器・測量器から精密機器製造に関わり、時計師となっていった。

 大野弥三郎規周製作の測量機器を販売していた玉屋の住所は、引札にあるように横山町三町目、現在の両国橋西詰付近にあたる。ところが、後に銀座三丁目松屋デパート付近に移転したのだろうか、同地にあったと記述するものもある。
 銀座三丁目にあった測量機器販売では老舗の(株)玉屋商店改め、現在のタマヤ計測システム(株)、その昭和6年のカタログの「事業」緒言には、以下のように記載されている。
 「弊社は延宝三年(二百五十七年前 1675年)既に玉屋の屋号で現在の銀座三丁目に眼鏡屋を開店し、引き続き商売をして居りましたが、維新後となるに至って測量器械其他各種欧米からの輸入品が漸次必要となるに至らんことを慮り、明治初年同各品の販売を始め・・・」
 また、測量機器製造に詳しい、片山三平氏の調べによると、両国玉屋の当主玉屋吉次郎と銀座玉屋商店の当主玉屋藤左右衛門との関係は不明であり、銀座玉屋は、代々眼鏡屋ののち測器販売になったという。残念ながら同一店、あるいは系列店であるとの確証は得られていない。

【参考文献】
「玉屋商品目録 第九版」現タマヤ計測システム(株) 昭和六年
「日本測量小史」高木菊三郎 古今書院
「江戸時代の測量術」松崎利雄 総合科学出版
「明治期作成の地籍図」佐藤甚次郎 古今書院  


   

【福井県】和田維四郎(1856-1920)

 和田維四郎

 

 和田維四郎は、文政3年福井県小浜市に生まれ、明治3年(1870)小浜藩から推薦を受けた貢進生として大学南校(東京大学の前身)に入学した。ドイツ語生として学んだのち、改称した東京開成学校でドイツ人鉱山技師シェンク(Karl Schenck ?-?)の指導で近代的な鉱物学を学ぶ。その後、彼の推薦を受けて同校助教を経て、明治10年には東京大学助教授となった。
 この間、シェンクの後任で地質学者のナウマン(Edmund Naumann 1854-1927)、鉱物学者マンロー(H.S. Munroe ?-?)、そして地震学者ミルン(John Milne  1850-1913)らとの交流をもった。

 明治11年内務省地理局に地質課が設置されると東京大学から同課へ移籍、翌12年にはナウマンも地質課にきて、全国の地質図と土性図整備計画を立案した。ナウマンは、地形測量などを指導するための技術者としてシュット(Otto Schutt ?-?)らを招聘する。
 シュットは、地質課の大川通久、阿曽沼二郎、神足勝己、中村凞静らを指導して、地質・土性調査のベースとなる地形図作成を開始(明治13年)、陸地測量部に先んじて本州各地から九州までの実測が行われ、地質図用などの20万分1地形図や40万分1の予察地形図が作成・刊行された。

 農商務省地質課は、明治15年に同省地質調査所となり、和田が初代所長に就任した。
 同18年からの18年間に計37面の土性図と説明書が同調査所から刊行され、同図の作成には当時地質調査所にあったドイツ人フェスカ(Max.Fessca ?-?)が指導にあたった。作成した土性図付属の調査員誌には、「土性図の地形の基線は、・・・伊能忠敬の実測図によった。その他は自分たちで実測した。岩石の区分は、わが国の鉱物学の先駆者である和田維四郎の地質概測によった」と、和田の係わりを記している。
 和田はその後、東大理学部教授や鉱山局長を兼務、同30年には、官営(八幡)製鉄所長官となる。退官後に「日本鉱物誌」を著した。和漢古書籍と鉱物の収集家としても知られる。


 

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