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概要

杭 RIPRO Eco Beat Disaster Vol.15

境界杭よもやま話上西勝也(測量史研究家)まえがき古代から測量には杭がつかわれてきた。「杭」といえば目印として地中に打ち込む長い棒、材料としては古くから石材をはじめ木材や金属など、近年では合成樹脂もつかわれている。杭の用途としては地図測量としての三角点や水準点などがよく知られているが、ここでは土地の所有を明らかにする境界杭を中心に測量の歴史を覗いてみよう。境界杭は、古代から測量の対象となっており、どの地方にも、山岳地にも、住宅地にも多種多様の杭が数多く見られる。いまや文化財として歴史を物語る貴重な杭もあり、これらをとりあげ、伝承されている話題を提供したい。徴税人、杭をさがす農耕や牧畜ともに定住生活が進展し、測量、地図、暦などが必要になってきた。たとえば中国の黄河や古代エジプトのナイル川では治水などの大規模工事が行われ、数学や天文学を応用した高度な測量にもとづく土木工事が行われていたことがうかがえる。他方、農地については課税目的で広範囲な測量が行われていた。古代エジプトの測量の様子は当時の壁画として残存している。エジプトの測量局発足100周年記念切手には、紀元前1300年頃のルクソールに残る壁画が描かれている(図1)。農地を背景に右先頭は巻尺を延伸する測量師、ついで測量隊の権威を表わす錫杖を持つ徴税人、そのほか測量記録または地図の巻紙を持つ書記などが登場する。徴税人が、大河の氾濫で土中に埋没した境界杭を発掘するために錫杖をつかったという米国の測量史研究者の説がある。この切手から、農地の測量によって面積を算出し、収穫を予想して課税に活かしたことが想像できる。図2吉野ヶ里遺跡の「逆茂木」(さかもぎ)弥生時代(復元)石をむすび、石を睨む7世紀半ば、大化改新以降、田地の国有化と分配のための班田制や、また区画整理、耕地整理のための条里制が実施され、大規模な測量による方格地割という土地整備が行われている。条里の遺跡は国内いたるとこころ散見されるが、一例として岡山県赤磐市の西部、旧赤坂町から旧山陽町にかけての条里遺跡には境界を示す標石が残存している。土地測量にあたって基点の役割もはたしているようだ。旧赤坂町には「縄目石」、旧山陽町には「睨み石」と呼称される条里石が見られる(図3)。これらの呼称は伝承上のことであり、当該標石については旧町村史などには掲載されているが歴史的な裏づけに乏しいものだ。「縄目石」は、その呼称からは石と石を結んで測量のために縄を張ったことが想像される。旧赤坂町には1ヶ所残存している。道路拡幅の影響で移設されているが赤磐市指定史跡になっている。高さ50cmで先端が細めの花崗岩であったが現在は大部分が埋没してしまっている。「睨み石」も縄目石と同様に測量基点の役割があったが傾斜地ではうまく縄が引けないため目標の標柱を立ててこの位置から、またはこの位置を睨んで条里を定めたとされる。現在、旧山陽町に3ヶ所残存している。上仁保にある「睨み石」は高さ75cmの不整形の花崗岩だ。図1古代の測量エジプト測量局100周年記念切手発行1998年古代日本の境界杭、逆茂木(さかもぎ)佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡では弥生時代(紀元前5~紀元3世紀)の遺構や遺物が発見された。弥生時代中期、環濠によって囲まれた集落内部には住居のほか祭殿や物見櫓などが見られる。米作と集落の発展ともに水や土地を奪い合う争いが起きてきた。集落の入口や重要な区域には、「逆茂木」(さかもぎ、乱杭とも)といわれる地上高さ2m程度の先が尖った木の棒で、柵を築き境界を明らかにして防御も厳重にした(図2)。図3岡山県赤磐市に伝承される条里石(左:縄目石、右:睨み石) 7世紀後期「睨み石」の近くの民家には「ナワメスジの窓」とよばれ白壁に10cm程度の四角い穴が開けられ魔除けとされている。地理学者、谷岡武雄(たにおか・たけお1916~2014)の説によれば、この窓から見通した線が条里の区画線に一致しているとのことだ。このほか兵庫県太子町には聖徳太子が山から石を投げて、落ちた範囲を土地の神様からもらったという伝説もあり、それゆえ境界石を「太子の投げ石」とか「太子のはじき石」と呼ばれている。「鵤荘ぼう示石」として兵庫県指定文化財になっている。P02