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概要

杭 RIPRO Eco Beat Disaster Vol.15

記念号特別企画合によっては面積の計算、新たな地図作成を行い、最終的に当事者の合意の上、仮の杭の位置に永久に残る境界杭を設置する。境界杭は森林、鉱山、河川、陸海軍用地、皇室の御料地などのほか公私の土地には、ほぼすべて設置されている。こでは明治後期に日本で、はじめて外国との間で合意のうえ建立された国境の標界杭(境界標石)を事例としてとりあげたい。日露戦争終結の1905年、日本軍は既に樺太全島を占拠していたが、ポーツマス条約で樺太(サハリン)の北緯50度以南を日本が領有することになった。北緯50度を実地で設定するにあたり日露合意のうえ天文測量によることになった。米国・カナダ国境の設定にも用いられたホレボー・タルコット方式である。1906年から1908年にかけて天文測量による日露国境画定作業がおこなわれ、東のオホーツク海沿岸から西の間宮海峡側までの132kmの間、東西一直線上の4ヶ所に天測境界標石、17ヶ所に中間標石、19ヶ所に木標が建てられた。天測境界標石は現地での加工があったため、標石の大きさ、形状、刻字は4基の標石すべて同じではない。高さ600~77、底辺40~56、下部奥行き24~30cm程度で将棋の駒のような形になっており、巨大な礎石の上に載っていた。標石の南面には菊の紋章と「大日本帝国」、「境界」の文字が刻され、北面にはロシア帝国のドボグラベーアリョーといわれる双頭鷲紋章とキリル文字で「РОССiЯ」(ロシア)、1906、「ГРАНИЦА」(グラニツェア国境)の文字が刻されており、側面には「天第△號明治三十九年」、反対側面も「АСТР▽」(アストロ天測)の刻字が見られる。(△は一、二、三、▽はⅠ、Ⅱ、Ⅲなど番号がはいる。)日本側国境画定委員に同行した地理学者、志賀重昂(しが・しげたか1863~1927)の日記には日露の国境画定委員の活躍状況が詳しく記されているが、1906年のところに国境標石について、つぎのように述べている。「九月三十日(日曜)晴。九時半、第二天測點着、去る十七日竣工せし境界大標石を見る、南面(日本領)の菊花章、神彩奕々(えきえき)、北面(露領)の雙頭鷲、瞳光爛々」で、1939年にソ連で銃殺され、岡田は1992年にモスクワで亡くなった。以降、国境標石の見学は厳しく制限された。天測境界標石は全部で4ヶ所に設置されたが、1970年代に旧ソ連国家保安委員会により現地撤去が指示された。撤去された標石のうち2基は残存しており「天第一号」がユジノサハリンスクの州立郷土博物館に、また「天第二号」は根室市歴史と自然の資料館に展示されている(図9)。また同標石のレプリカは東京の明治神宮聖徳記念絵画館前庭をはじめ札幌市、旭川市など各地で見られる。あとがき本稿では多種多様の測量標識のうち境界杭をとりあげ事例を紹介したが、境界杭は身近にも多く存在している。しかし近年の道路整備や交通事情で破損や撤去されることも多い。また標識の意味がわからず棄損されることもある。日本では法律で境界杭は「界標」とよばれ損壊、移動、除去することは禁止されている。いま人工衛星の整備とあいまって普及してきたGPS(全地球衛星測位システム、GNSSとも)によって、任意の位置で経緯度を知ることができるが、あくまでカボチャのように凹凸のある地球表面を、スイカのように滑らかにモデル化した回転楕円体上の位置であって、実際の地球の表面の位置ではない。実用上、差支えないとしても、位置を直ちに目視で特定するためには実地に設置した標杭にまさるものはない。2世紀頃から現れた「旧約聖書」の箴言(しんげん、教訓や格言)22:28には「あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない」とある。「地境」というのは、普段つかわれない用語であるが英文の聖書には"boundary stone"になっており、境界標石だが「地境」と訳されている。旧約聖書では箴言のほか申命記やヨブ記にも現れている。土地の境界には石が置かれただけの場合が多かったが、それをこっそり動かして自分の土地を広げてはならないと戒めている。祖先が建立した境界標石は「主」、すなわち「神」が割り当てた土地の境界である。主の約束がそのとおりであることを示しており、境界標石を動かすことは他人のものを、だまし取り、また主のものに手を触れることにもなる。日本でも8世紀はじめに編纂された「常陸國風土記」の「行方郡」(なめかたこおり)」のところに「杭(くひ)を標(た)てて堺の堀を置き夜刀(やと)の神に告げて曰ひしく此より上は神の地たることを聴(ゆる)さむ此より下は人の田と作すべし」と記述がある。神の地である山と人の地である田畑とを明確に区分するために、その境界に杭を立てたことを表している。境界杭は隣接する土地の人々との約束であると同時に神さまとの約束ごとだ。敬意をもって、いつまでも大切にしたい。図9樺太の日露天測境界標石「天第二号」1906年根室市歴史と自然の資料館展示革命によってロシア帝国が崩壊しソビエト連邦が成立後の1938年1月、演出家、杉本良吉(すぎもと・りょうきち1907~1939)と人気女優、岡田嘉子(おかだ・よしこ1902~1992)が天測境界標石「天第三号」の見学と偽り、吹雪のなか警備隊の制止をふりきりソ連へ越境逃走、厳寒の「恋の樺太逃避行」と騒がれる大事件となった。杉本はスパイ容疑主な文献Joel F. Paulson: Surveying in Ancient Egypt FIG Working Week Cairo 2005 p1-12山陽町史編集委員会:山陽町史山陽町1986 p148-151西岡虎之助:日本荘園絵図集成(上)東京堂出版1976 p62,190加茂町史編さん委員会:加茂町史第二巻近世編加茂町1991 p97-99國書刊行會編:近藤正齋全集「近藤守重事蹟考」國書刊行會1905 p32樺太境界劃定委員:樺太境界劃定事蹟陸軍省1910志賀重昂:大役小志博文館1909 p1042武田祐吉編:風土記岩波文庫1937 p59本書の図はすべて著者が撮影または保管者の許可を得て複写したものである。転用不可。著者上西勝也(うえにし・かつや、1938年生まれ、英国王立地理学会フェロー)P05