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概要

杭 RIPRO Eco Beat Disaster Vol.15

な標石は設置されていないが、ところどころ「初杭」、「印杭」、「残杭」、「止杭」などと測量の終始を示す杭を設置し、また岩石に「〇の中にカナ文字」などの目印をつけたことが伊能の測量日記から知ることができる。数多くあるが残存は確認されていない。オロシャの十字架を引き抜く江戸時代には蝦夷地(えぞち、北海道・北方諸島)へ外国が進出してくる。たとえば、1643年、オランダのド・フリース(1589~1647)が金銀資源探索のため艦船2隻で千島列島に来航、択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島を西欧人として初めて発見して、それぞれスターテン・ラントとコンパニース・ラントと命名して領土宣言をしている。得撫島には上陸しオランダ東インド会社の紋章を彫った木製の十字架を立て、その地をクロイスフック(十字架岬)と命名した。17世紀末期になるとロシアの勢力はコサックによって拓かれたシベリアから千島列島を南下し日本に近づいてきた。ロシア帝国の始祖といわれる大帝ピョートル一世(1672~1725)や女帝エカテリーナ二世(1729~1796)の時代からロシアは西欧強国としての体制と実力を整えてきた。これらの動向にたいし幕府の勘定方などを勤めた近藤重蔵(こんどう・じゅうぞう1771~1829守重、正齋とも)は北方諸島調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱となり、5回にわたり蝦夷地に赴き千島列島、択捉島を探検した。近藤は1798年、北方探検に経験ある最上徳内(もがみ・とくない1754~1836)を随員として国後(クナシリ)島から原住民の小船で択捉島にたどり着いた。2年後の1800年にも、近藤は航路を開拓した高田屋嘉兵衛(たかだや・かへい1769~1827)ともに、ふたたび択捉島へ渡った。択捉島北端のカムイワッカ岬に、当時すでにロシア人が往来し十字架を立てていたが、それを倒して「大日本恵登呂府」の木柱を立て日本の領土であることを示した。十字架は以前に上陸したロシア人の信仰や布教のためか、島の領有を示すものかは不明だ。北海道庁の旧館、赤れんが庁舎には近藤が建立したとされる「大日本恵登呂府」のレプリカと記念彫刻板が展示されている(図7)。図7「大日本惠登呂府」の標柱1800年(復元)北海道庁旧庁舎展示近藤の墓所は滋賀県高島市の瑞雪禅院にある。1905年9月、「近江新報」(西川太治郎社主)に載せられた「近藤重蔵の墓」の一部をここに紹介する。「一夜俯仰感慨の餘、北斗の碧光に對し端なく近藤正齋を想起しぬ、北門の障壁猶堅からずして、猛鷲其嘴爪を利くこと彌鋭く、雪は擇捉島(えとろふとう)端を壓して、オコツク海の寒潮跳躍咆哮する事舊の如し、誰か此波濤を開拓するものぞ、近藤在仲は實に之が開拓を試みんとして、時勢非なるが爲めに憤死せしものなり、(中略)春風秋雨弔ふもの稀に、碑石次第に朽ちて草篠徒らに茂る、虫聲のみ昔ながらの秋を歌ふ、幽魂何れの邊にか迷ふ、嗚呼擇捉島の一角カムイワツカオイの山頂、露人の十字架を倒して「大日本惠土呂府」と題せし君が英魂毅魄(きはく)の後を承るものは今將(は)た何人ぞ」「大日本惠登呂府」の標柱は1859年には、痛みが激しいため、この島を警備していた仙台藩士が「大日本地名アトイや」と書き改め、建て直された。1875年、ロシアとの間で樺太千島交換条約が締結され千島列島すべてを日本が領有することになった。翌年、開拓使書記官が択捉島を巡察しアトイヤ標柱を持ち帰った。この標柱は現在、函館市の北洋資料館に実物がある。標柱は高さ194cmのトドマツで作られたもので、確かに「大日本地名アトイや」と書かれている。その後、1930年に当時、在住する日本人が花こう岩の標石で「大日本恵登呂府」の碑を再建したが第二次大戦後、同島を占拠したソ連軍により破壊された。図8歌舞伎「山開目黒新富士」近藤重蔵、ロシア十字架と日本標柱初演1893年近藤重蔵は歌舞伎「山開目黒新富士」(やまびらきめぐろのしんふじ)にも現れる。初演は1893年、近藤重蔵(誉堂龍蔵と仮名)を演じる市川左団次がオロシャ(ロシアの旧称)の十字架を引き抜きロシアと見立てた熊を投げ飛ばして見得を切っている場面が絵師、豊原国周(とよはら・くにちか1835~1900)によって錦絵に描かれている(図8)。脚本家、岡田新蔵(おかだ・しんぞう1847~1923)作の台詞ではつぎのように述べられている。「ムヽ是ぞ豫々(かねがね)調べ置きたるカムイワツカヲイの頂上にヲロシヤ領の印(しるし)有とは正敷(まさしく)是に相違なし見るも心に障りし標柱イデヤ是にて引抜くれん」国境を越え恋の逃避行明治維新後は欧米技術の導入によって、近代的な地図測量が全国に展開され、三角点などの測量基準点が設置された。境界杭については新政府によって多くの部局が、それぞれの目的で土地の境界に建立した。境界には、まず土地の所有者、管理者の当事者間で協議し、境界とする位置の要所に仮の杭を建立する。その後、測量を行い地図上に明示、場P04