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概要

杭 RIPRO Eco Beat Disaster Vol.15

記念号特別企画領地のしきり、?示標(ぼうじひょう)大化改新によって成立した公地公民制は農民には加重な義務をともない維持が困難になり、8世紀なかばには寺院や貴族が管理する荘園が発生した。荘園など領有地の境界を示す?示標の存在が伝承されている。荘園の実地での境界は山、谷、河川など自然物によることが多いが、荘園の四隅には境界を標示する立木、木杭、石柱などの建立、土盛や木炭を埋めることもあった。これは「四至?示」(しいしぼうじ)と呼ばれ、四至は四角形の東西南北各辺を表し、?示は四角形の四頂点になる。そのため?示には艮(うしとら)、巽(たつみ)、坤(ひつじさる)、乾(いぬ)の方位が与えられた。荘園の絵図上では丸や棒状の記号で表示されていることが多いが実際の形を表したと思われるものもある。?示の例としては寺院の境内図に見られる。1230年に制作された「山城国主殿寮領小野山与神護寺領相論指図」には根元が太く先が細長い形状の?示杭が描かれている(図4)。荘園の検田、絵図制作などに正確な測量が必要なことから造宮職(ぞうぐうしき)に測量を行う「算師」(さんし)という役職が置かれた。当時の測量は磁石のほかに縄、竿を用い高度な数学もつかわれたようだ。?示の「?」は札(ふだ)の意味もあり、後には分木(ぶんぎ)ともいわれている。?示の木杭には荘名や方向を明示しているものもあるようだ。現在の境界杭と異なることは、?示は荘ごとに独立して立てられ隣接する荘との間に無所有の緩衝地帯が存在することもあった。荘園が設置されることを「立荘」といわれるが立荘に際しては関係公私人が立ち会い?示が設けられ、また廃絶するときは、まず?示が廃棄された。図5葛飾北斎「地方測量之圖」1848年朝廷の使者、日光東照宮へ江戸時代の境界杭は幕府や藩により建立されたほか、朝廷、公家の領地にも見られる。ここでは特異な一例を挙げる。京都南部には例幣使料地(れいへいしりょうち)といい朝廷関係の用地が残存している。例幣使とは毎年朝廷から伊勢神宮に幣帛(へいはく、お供え物)を奉納するため派遣される勅使のことで、奈良時代初期から行われたが、武家の勢力が増大し一時中止されている。しかし江戸時代になって再興され伊勢神宮ともに徳川家康を祭神とする日光東照宮にも例幣使が派遣されることなった。このように江戸時代の幕府は表向き皇室崇敬、裏面では常に牽制にでていた。例幣使の費用をまかなうため17世紀半ば、幕府は例幣使料地を定め、その地から得られる年貢を朝廷に献上することなり、この慣行は明治維新まで継続された。例幣使料地として、京都南部の木津川流域にある瓶原(みかのはら、現木津川市)が選ばれた。選定理由として水害のすくない丘陵地であること、鎌倉時代に開削された用水路があり灌漑が安定していること、かつての恭仁(くに)宮跡があり皇室との関わりが深いことなどがあげられる。料地の境界は溝や土手が築かれ竹木やクチナシ、カラタチが植えられ、石の境界杭も設置された。その境界杭は、いまなお多数残存している(図6)。図4山城国主殿寮領小野山与神護寺領相論指図1230年平安時代から安土桃山時代までの間、新たな測量の事績には、豊臣秀吉が行った太閤検地がある。検地に際しては既に区画整備された土地をはかるため、?示杭なども利用されたようだ。耕作者の登録と農地の測量を正確に行うことにより年貢徴収の合理化がはかられた。耕地だけでなく山野も検地の対象となったことにより、いままでの複雑な土地権利が整理され、土地制度が一新され荘園制度は崩壊した。葛飾北斎(かつしか・ほくさい1760~1849)が1848年に描いた測量風景の図がある。北斎89歳、最後の版画作品といわれている。地方測量之圖(じかたそくりょうのず)といわれ、検地のための測量風景を描いているが、全員が大小の刀を帯びているところが面白い(図5)。図6例幣使料地境界杭京都符木津川市江戸後期江戸時代の測量については伊能忠敬(いのう・ただたか1745~1818)の全国測量を無視できない。1800年から17年間をかけ全国の沿岸部をすべて徒歩で測量した。伊能の測量では現在の三角点のようP03